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伊勢神宮を本宗と仰ぐ、神社本庁傘下の神社です。

地元のことLOVAL

瑳珂比神社には奉納された算額があります。
その写真と、書かれている文字は下記のようになります。


上毛文書15 群馬の和算家-そろばんの師匠たち-に下記のように解説されております。
そろばんの師匠が門人とともに奉納したそろばんの額が、佐波郡境町にもある。東武鉄道伊勢崎線を境町駅で降りて、まっすぐ南へ五、六百メートル行った所に瑳珂比神社がある。この神社に明治十五年三月に奉納された算額がある。横が一五四センチで縦が一〇六センチの額の中央にそろばんが描いてあり、算題はない。そろばんの玉は、実(被乗数または被除数)に一二三四五六七八九と置き、法(乗数または除数)に二と置いてある。これは、江戸時代に最も使われた有名な算術書『塵劫記』の中にある最初の問題
あるいは、米十二万三千四百五十六石七斗八升九合を二つに割れば、
六万千七百二十八石三斗九升四合五勺づヽ。
を説明した「二刻図」つまり二で割る図を模したものと思われる。
この算額を奉納した人は「関流 福島松山藤原保孝」という人である。松山は号で、保孝は諱であろう。ほかに、門人が五十名、世話人が六名、後見として四名の名前が記してある。ところが、これら六十一名の人たちの住所が全く書き添えてないので、そろばんの師匠であったと思われる福島松山について調べる手掛かりがつかめないのである。
門人の中には女子が十八人いて、全体の三十パーセントにあたる。前述の碓神社の算額の門人の場合は約二十パーセントが女子であったから、女子が一割も多いことになる。この事実から、福島松山のそろばん塾が商家を含めた町人が多く住んでいた所、したがって境宿にあったと考えて間違いあるまい。江戸時代における寺小屋に学んだ子どもたちの男女の比率は、商家の多い地域ほど女子の割合が多く、武家の多い城下町や農村では女子の寺子が少なかったが、この傾向は明治維新後も当分続いたとみてよいからである。

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