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伊勢神宮を本宗と仰ぐ、神社本庁傘下の神社です。

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瑳珂比神社に縁のある村上俊平

名は彦、通称俊平。また櫻山五郎と称し清節と号した。村上随憲の三男である。幼にして穎悟、性頗る豁達剛毅で好んで書を読み夙に兵書に通じた。稍長ずるに及びて徂徠昭陽の学を喜び仲田?食の為人を慕い、また山河を跋渉して快しとし、文を綴り、詩を賦し、獨り自ら楽しんで居た。弱年に至り大いに国家に報いんと志し、笈を負いて江戸に到り、安井息軒の門に入り勉学大いに努めた。常に皇室の式微を歎き、談偶是に到れば切歯扼腕、涙漣然として下る。外夷の超梁(跳梁?)を悲しみ、文久2年(1862)尊王攘夷を叫び同志を武州秩父山の東に糾合せしも志を遂くことが出来なかった。僅かに身を脱して郷閭に帰り、嫌疑を避けて金山の金龍寺に匿われ膽を練り気を養うて居た。幾何もなく尊王攘夷の士、四方に起った。是に於いて幕府草莽の武技に達するの士を募り浪士の一隊を編せんした。君蹶然起って之に応じ同志300余名と京師に上り尊王攘夷の議を奏した。文久3年(1863)4月、親征の詔勅を拝するや40余名と謀り風雨に乗じて窃かに横浜を夜襲し遙かに勅旨に応せんとした。曾々約を破るものがあって籌策竟に画餅に属し謀露れて幕府の探捕甚だ厳であった。乃ち潜行して辛うして京師に上った。同年10月、遂に幕吏に捕らえられ六角の獄舎に繋がれた。この秋に当り京師大いに乱れ、久坂玄瑞等、会津桑名の軍と戦い兵火起こり暴風激しく火焔遂に六角の獄舎に及ばんとした。君は幕吏の為に憂国の士、平野国臣(平野次郎)、安積五郎外33名と共に刑戮された。実に元治元年(1864)7月20日であった。嗚呼壮心未だ時に会せずして空しく刑場の露と化す。時に年僅か20有7、明治26年(1893)11月、靖国神社に合祀せられ、大正4年(1915)2月、特旨を以て従五位を贈られた。大正6年(1917)11月、郷党の有志相謀り、瑳珂比神社社頭の地に碑を建て氏の功を録し以て後世に伝えて範とした。
佐波郡誌 昭和51年3月31日佐波郡役所編より抜粋。一部漢字を新字に変えています。

幕末のころ東毛地方には多くの勤王家があったが、境町に勤王の故をもって従五位を追贈された人が二人いる。それは島村の画家金井烏洲と境町の草奔の士村上俊平である。年27、まさに有為の青年にして斬に遭ったが、天命を籍したならば天下に号令する豪傑たり得たであろう。それは惜しみてもあまりある。
俊平の父は随憲と呼んだ蘭方医術の先駆者で、文政年間(1818-1829)上毛において沢渡の福田宗禎と並び称された名医である。門前常に市をなしたという。俊平はその父の三子で、天保9年(1838)9月5日境町に生まれた。長兄は秋水といい、漢学書道に秀でて名がある。俊平は字で、名を彦といい、清節、点狂生、九洞山人、泛塵子、鉄偶子、牛背学人、英風洞、痩月園などの諸号があり、あるときは桜山五郎などと変名した。甲子殉難録などにこの名がある。
伝によれば「幼にして頴悟性豁達剛毅、少より好んで書を読み、夙に兵書に通ず」とある。子供のころから兵事が好きだったようである。そして父から勉強読書をすすめられたであろう。俊平の長ずるころ、父は征病余暇黌楼という私塾を設けて、師弟に授けていたから、俊平もともに学んだであろう。
長ずるにおよんで江戸に出て安井息軒の塾に入門した。就学何年だったが知られないが、息軒について経史を修めた。業数年におよぶという。そのあとさらに古賀謹堂の塾にあそんだが、息軒、謹堂二門において交るものは当時有為の青年ばかりであった。有為の門生らは毎に皇室の式微を嘆じて、談たまたまこれにおよぶと、切歯扼腕して涙をながしたそうである。若干出府しているので、息軒塾を卒えたのは20才を越して間もなかったであろう。一時郷里に帰ったのである。
諸書に俊平を医家としているが、医術は修めていないし、実際に医業にはたずさわっていない。これは父や兄が医家だったので誤り伝えられたのである。父も俊平も学問で身を立てるつもりで、儒家の道をえらんだと思われるが、今日的には時代があまりに騒がしかったので、俊平に一所安住をゆるさなかったのである。また父が高野長英などに交わった革新思想家だったから、私塾から大館霞城や黒田桃民、金井之恭などの革命家が育っている。俊平が影響を受けないはずはなく、これらの草奔の士に交って次第に革命家の道をたどったのである。
文久2年(1862)、24才のとき清川八郎や北有馬太郎らが、秩父の東に勤王の党を結んだとき、俊平は之恭らとこれに投じようとしたが、之恭は尚尚早の故に頑じなかった。俊平は単身討幕軍に加ったが、幕軍の攻撃に清川ら惨敗して四散した。俊平は上毛に逃れ、太田金竜寺にしばらく潜伏して、幕吏の追求を避れたのである。
翌3年幕府は関東の草奔を集めて浪士局を結んだが、俊平はこれに応じて江戸に出た。浪士募集の徴に当ったのは清川と芸藩の池田太郎で、池田はしばしば上毛に来遊して随憲と親交のあった人である。大館霞城に宛てた池田の手紙によれば、秋水に薬用の世話になった礼にそえて「其節被託候御子息俊平君への御書、安井先生御塾へ罷上り候事出来かたく今般御かへし申上候」とある。俊平修学中であるから安政年間(1854-1859)のものであろうが、浪士局に参加した俊平は二番組小頭黒田桃民に属した。
文久3年(1863)3月、浪士局は京都に行ったが、すこぶる乱暴をきわめ、公然と朝廷にはたらきかけるものもあって統制がなかったので、翌3月東下を命じられた。江戸に帰った俊平はついに浪士局を脱走した。このとき一詩を賦している。
屈膝犬羊誰忍羞(犬羊のごとく膝を屈して誰かはぢを忍ばんや)
此身況又産神州(この身いわんや神州に産る)
丹心自誓腰間劔(丹心みづから誓う腰間の劔)
不攘妖気死不休(妖気をはらわざれば死してもやまず)
父随憲が非常に革新的な思想家だったので、俊平も強くその影響を受けた。そして高山彦九郎に傾倒して尊王攘夷の運動に加わったのである。浪士局を脱走した俊平はその5月北陸道を経てまた京都に入った。西上後の足どりは大阪に池田徳太郎をたずねたほかにはわからない。このとき朝儀一変して七郷の長州落ちがあり、俊平もあとを追って一旦長州に入った。
たまたま大和の天誅組の旗挙げと同時に、平野国臣は但馬に義挙したが、俊平はこの但馬義挙に参加し、敗軍のあと京都に潜行した。このとき池田屋騒動が起り、その余類に追及がきびしかったが、俊平はついに捕われて六角の獄に投じられた。
元治2年(1865)7月、京都に禁門の変があって、兵火が六角獄舎におよばんとしたとき、その20日朝、平野国臣、俊平ら33人を斬に処したのである。27才であった。
大正4年(1915)勤王の故をもって従五位を追贈され、その記念碑が瑳珂比神社境内に建てられた。著書に家言録、正之歌集と夢余吟稿、睡余録が刊行され、遺稿に清節遺稿、読中庸、読大学、読論語、読孟子、悲洛?学、読唐詩選がある。
境町人物傅 より転載。西暦は編集者が追加

石碑の碑文を下に記します。
贈從五位村上君碑
正二位勲一等公爵鷹司煕通題額
君諱彦稱俊平號淸節又牛背學人上野佐位郡境町人其先菅谷氏住武蔵至父廣籌號櫟園移居境町業醫有徳望子四人長俊早死次廣矛襲父業季鼎出爲人後君其第三子也幼頴悟嬉戲聚群童擬戰鬪畫陣形於地爲攻守勢已長闊達有大志尤暁兵法忠義出於天性恆語人曰某得拜 至尊死無恨矣在家事父兄孝弟純至好讀書學尚物徂徠文喜陳龍川弱冠赴江戸執贄安井息軒居敷歳又遊古賀謹堂門所交皆奇傑士安政末外艦連至國家多虞君憤外夷跳梁幕府偸安慨然賦詩見志有丹心自誓腰閒劍不攘妖雰死不休句方是時井伊直弼爲幕府大老侮蔑 朝旨誅竄憂國士尋安藤信正爲閣老益阿諛外人國事日非君大息謂人曰噫大義之失名分之紊一何至于是也我鄕曩有高山仲縄慨 皇威衰替仗劍遊説鼓動海内志士吾雖一布衣亦安得不爲 皇家致力哉會出羽淸川正明安藝池田某筑後中村某等來武藏兩野閒唱尊攘説君與之締交欲糾合關東志士擧事先是有櫻田阪下之變幕府警戒尤嚴至是池田中村等相繼就捕正明西奔君僅得免變姓名曰櫻山五郎已而幕府遵奉 朝旨有朝覲之議募勇敢士編成一隊稱浪士組君謂此男兒伸志之秋也謂廣矛曰方今國歩艱難自思忠孝難兩全奉養之事一煩阿兄請造一牌書報國盡忠之士菅彦靈傅諸宗家後嗣俾似紹其志弟雖死猶生也辭色甚廣矛亦有氣概喜諾焉君復與池田某等投浪士組時文久三年正月也君等屬鵜殿長鋭由中山道進京師呈尊攘意見諸於學習院是時浪士各持己説不合都下洶擾三月鷹司關白傅 朝命於浪士曰聞外艦將侵江戸宜東歸備之君與正明等二百餘人奉 命東下未幾攘夷 詔下君又與水戸平國某石井某等相謀將以大有所爲幕府畏忌偵察太急頃之正明爲人所刺殺其餘或捕或遁君潛召同志十餘人欲西上謀再擧途復訪父兄爲訣且曰在昔平薩州之戰歿鎧袖藏歌稿人因知其爲忠度某不忍死後無一篇文乃携曾所作文稿而去取道北陸畫伏夜行以抵京師則 朝議俄變三條實美等七卿及志士多被貶黜君追七卿入於長門既而還京師潛匿元治元年六月五日宮部增實等會三條客舎池田屋密謀擧事爲會津兵所圍奮鬪死之幕府物色餘黨益急君以嫌疑逮繋于六角獄七月十九日禁門變起兵燹將及獄時同囚有平野國臣等三十餘人幕府恐放之或生後患翌日盡斬之君亦遇害時年二十七屍?于刑場側後十餘年有人收其骨葬下立賣竹林寺明治二十六年十一月 朝廷録君殉難配祀靖國神社大正四年十一月
今上擧即位禮贈從五位今茲鄕人胥謀建碑以表之來請余銘銘曰
維昔仲縄念祖慕親竭心王事慷慨殺身君其後進桑梓相隣忠孝同志欽其爲人
修文講武材力超倫流離顛沛志氣彌振鳴呼一死以成其仁貞石載英名不泯
大正六年二月     從六位 内田周平
從二位勲一等男爵野村素介書
群馬の漢文碑 より抜粋。

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