本文へスキップ

伊勢神宮を本宗と仰ぐ、神社本庁傘下の神社です。

地元のことLOVAL

石剱稲荷(瑳珂比神社)に縁のある金井烏洲

瑳珂比神社(石剱稲荷大明神)に奉納されている絵馬「子房取履」を描いた金井烏洲

通称彦兵衛、諱は時敏烏洲と号した。新田家の支族金井長徳の第二子で寛政8年(1786)境島村に生れ、資性温厚幼より学を好み長兄莎邨に就き経史(経書と史書)を修めた。稍長じて江戸に遊学し経史を朝川善庵に、詩を菊池五山に、文を古賀?菴に学んだ。性頗る畫を好み暇さえあれば則ち山水花鳥の類を書き以て楽とし後、春木南湖に学び出藍の誉れがあった。また谷文晁を師友とし、技を研く傍ら、古今の書籍を渉猟し東西の墨蹟を臨慕し、未だ曾て一日も怠らないその書益精に入り文亦益進んだ。氏国史を読み南朝に至る毎に祖先一門の義に殉じたるを歎し、爾来皇室式微して紀綱振はざるを見、慷慨悲憤憤然として恢復の志あり、心窃になす所あらんとした。千種有功卿日光に例幣使として赴かるるあり、謁を求めて誠を輪し深く契訂する所があった。天保3年(1832)春、意を決して田島梅陵を伴い西游の途に上り、先ず伊勢の大廟を拝し、月瀬より南都に赴き行々皇陵荒廃の状を拝し感憤巳ます之を写して京都に入り有徳卿に献じた。また頼山陽を訪い自書の山水を以て贄となし且月瀬書巻に題賛を請う。山陽筆籠萬玉の四大字を題し三絶を録して與う。是より交情愈厚く共に皇室の式微を歎し時事を評論し肝膽相照し暗に黙契する所があった。山陽詠左中将七律一首を書し氏に託し新田の宗家(萬次郎)に贈らしめた。また梁川星巌、小石元瑞諸名流と相往来した。京都より天橋に遊い浪華に出て讃州に航し高松に往き、元明清名家の書畫を鑑賞し頗る得る所あった、筆致為に一変した。岡山、広島、防長を過ぎ、更に長崎に遊ばんとし適父の病報に接し勿遑東帰せしも、竟に臨終の時に及ばす慟哭すること数日喪に服する三年であった。嘉永6年(1853)黒船浦賀に来り為に国論鼎沸した。氏浦賀に赴き劃策する所ありしも果たさずして帰る。是より他藩勤王の義徒名を書畫に托し来たりて投ずるもの多く陰に陽に之を庇護して寄急を免がれしめ殆ど寧日がなかった。著書に無聲詩話無聲詩蛆がある。安政4年(1857)正月4日瞑す。享寿62、大正7年(1918)11月18日功を以て従五位を追贈せられた。
『 佐波郡誌 』 昭和51年3月31日佐波郡役所編より抜粋。一部漢字を新字に変えています。

江戸時代後期の上毛画壇で、金井烏洲ほど名筆を賞されたものはなく、何十百の上毛画家のうち第一等の南画家であった。画が秀絶であり、書が能く、しかも作詩に秀で、月琴に巧であった。そしてそれ以上に寡欲で、人物がよかった。
烏洲は佐位郡島村の人で、寛政8年(1896)に生まれた。名は泰(たい)、諱(いみな)時敏、字は林学、左仲太のちに彦兵衛と称した。烏洲、呑山人、小禅、獅子吼道人、朽木翁、桑庵、半霞、半漁、墨農、白沙邨翁、翠竹荘など20程の別号があり、また華竹庵二世金彦と号して俳諧を行った。父は華竹庵万戸、俳諧の名手として知られ、兄莎邨は精里に学んで江戸詩壇を驚倒させた秀才であったが、2歳年上の兄が31才で早逝したので、次子烏洲が家をついでのち彦兵衛を襲名した。
幼より父に句読をうけて読書を習い、やや長じたころ、毎歳のように来遊した江戸の春木南湖について画を学んだ。そして21才のとき江戸に遊学したのである。画を南湖に、詩を菊池五山に、古賀?庵に文章を学んだ。
江戸四谷には近縁にあたる書家多賀谷向陵がいたので、向陵の斡旋で諸家を識るようになった。まだ江戸に出て間もなく、ある書画会で即席に画を揮毫したが、来合わせた五山があまりに力にあふれた佳作を見てびっくりしてしまった。そして間もなく烏洲が自作の詩三篇を持って五山に入門を乞うたところ、画家と思った青年の立派な作詩にまたびっくりしたという。烏洲の画と詩と書には天禀の才があった。
遊学中の烏洲はよく諸名家に交わったが、ことに文晁の写山楼にはしばしば出入した。当時写山楼は江戸文人の社交場で、ここで山陽を識り、崋山を知り、柳湾、星巌、詩仏らに交わったのである。早くからその画才は諸家の認めるところだったのである。
24才、勉強を卒えて郷里に帰った烏洲は、武州新戒村の福島氏の女紀伊と結婚した。このころ桑庵、水陸邨桑者などとも称した。莎邨の友だった野田笛浦が呑山楼にきたのもこのころであり、画業としては保泉勝山神社の天井絵が残されており、文政5年(1822)作、境町瑳珂比神社の絵馬がある。同7年(1824)3月、兄の莎邨が江戸の向陵宅で急逝し古賀塾に5年、長崎に1年、心ゆくまで遊学して清新の詩風をうたわれた兄は、薄命にして世を去った。烏洲に悲痛な哭詩がある。
狐雁離行涙萬絲(狐雁離行涙萬絲)
無端触景奈追思(端なくも景に触れて追思をいかんせん)
江城夜雨相親硯(江城の夜雨相親の硯)
崎館春光曽酌扈(崎館の春花かって酌扈(しやくは))
剰墨慵看題壁字(剰墨看るものうし壁に題する字)
遺篇忍読満囊詩(遺篇読むに忍びんや囊に満つる詩)
多情只是漁家笛(多情ただ是れ漁家の笛)
風月楼前声耐悲(風月楼前声悲しむに耐えたり)
田崎草雲の入門はこの数年後であるが、もともと烏洲家と田崎家は親縁の関係だったそうで、記録によれば早草の父も翠雲と号して画をたしなんだといわれる。まだ14才の少年は父と呑山楼にきた。所が田崎少年は、あばれて夜遊びはする、酒は呑むで、とても烏洲の手に負えなかったらしく、間もなく川崎の加藤梅翁のもとに遣ってしまった。このころ館柳湾が呑山楼を訪れて、寄題詩一篇を投じている。天保元年(1830)前橋竜海院の奕堂禅師に参禅し、これより小禅道人、獅子吼道人の号を用いるようになる。
高野長英がはじめて呑山楼にきたのは天保2年(1831)で、長英は境町に留寓して烏洲や村上随憲らに往来した。長英と入れちがいに渡辺崋山がきた。桐生の妹のもとに滞在した崋山は、この年しばらく上毛に遊び「毛武遊記」に一遍を残した。このときの崋山の手紙に「余の画見くれ候もの烏洲子と東塢」とある。そして烏洲につれられて崋山は新戒の伊丹渓斉を訪うている。烏洲が西遊したのはその歳暮である。
月か瀬に梅渓を写し、京に頼山陽を訪うた。たずさえた月瀬画巻の名筆を嘆賞して「筆龍萬玉」の四字を題したのである。京では千種有功、小石元瑞、浦上春琴らに交わり、詩仙堂の故旧を訪ねている。浪華に出た烏洲は篠崎小竹をたずねた。やはり月瀬画巻を賞した小竹は「墨含千芳」の四字を題して与えた。烏洲の名筆「月瀬画巻」は山陽、小竹が題書したことにより一層有名になったのである。
兄莎邨は長崎に1年、清人に交って心のままに遊んだが、烏洲西遊の目標も長崎にあった。しかし広島の頼杏坪のもとにいたったとき眼病をわずらい、しばらく眼医の治療をうけたのであるが、このとき単行万里、そでに?中に一物もなかった。やむなく揮毫して薬礼にあてて旅行をつづけた。そして壇の浦にいたったとき、父万戸の訃を聞いたのである。
天保4年(1833)之恭が生まれた。この年父の盛大な小祥書画会を呑山楼に開いた。その翌年草雲がふたたび入門した。すでに江戸に一家をなしていたはずだが、草雲にはまだ意に充たなかったのであろう。烏洲の薫陶をうける草雲の画業はますます進んだのである。天保6年(1835)万戸の追悼句集「竹の落葉」を編纂上梓した。上毛における俳誌中の珠玉と称されている。
このころ烏刀の洲中にある呑山楼には天下の名流の訪れが絶えなかった。詩仏、雲山、文晁、南湖、閑林、五山、嵐渓、蘆屋など一流ならざるはなかった。烏洲は諸家に呑山楼寄題詩をもとめたのである。そして菅井梅関がはじめて来訪したのもこのころで「奥の梅関、関東の烏洲」とならび称されて雌雄を競うた相手であった。呑山楼に肩を張って軒昮と相対す両雄の姿が眼に浮かぶようである。
烏洲の画業はさらに充実して、天保末年(1843)から多くの名作を残しているが、白井双林寺の大襖を揮毫したのは天保11年(1840)、その数年後前橋竜梅院の大維摩を画いた。稀有の大幅でいずれも代表作として伝えられている。しきりに草津に遊湯したのもこのころで、吾妻方面に著名な烏洲作品が数多く残されている。
かって万戸大尽と称された烏洲家の巨富は、伊勢崎藩に対する莫大な貸金が貸倒れになって、天保(1830-1843)の中ごろには破産の状態になってしまったのである。貸した金は取れない、借りた金は取られるという次第で、破産と同時に毎日債鬼どもが押しかけて身上はどうにもならないほど困窮してしまった。このごろから烏洲は画業一途の生活になるが、揮毫料によって衣食は十分であった。天保10年(1839)師の南湖が没し、同12年(1841)文晁も西旅した。翌13年(1842)江戸を逐われた寺門静軒があらわれた。烏洲の知遇を得てしばらく呑山楼の客となって静軒には「白沙翠竹邨舎記」という、主人烏洲の好遇を謝した一文があって、静軒文鈔におさめられている。そして間もなく梅関が死んだ。
弘化2年(1845)、本庄において梅関の小祥書画会を催している。有名な盛事であった。烏洲もようやく老境に達して、このごろから朽木翁、萎秕道人の別号を用いている。やがて?庵が没し、烏洲53才のときに母が逝った。その翌年親交した善庵が没した。その2年後、唱酬の絶えなかった小竹が没し、この年夫人の紀伊を衷ったのである。48才であった。
生涯の念願であった八名家呑山楼寄題詩は嘉永3年(1850)に成就した。杏坪、山陽、詩仏、雲山、柳湾、小竹、五山、星巌、実に当代一流の八名家である。寄題詩はおさめて無声詩話である。
烏洲はかなり革新的な思想をもっていたであろう。当時学問を修めた処士が、その封建的社会的不合理に疑問を有たないはずはない。長英、崋山、山陽、香坡、天山らに交わった烏洲は当然社会改革の意を有ったであろう。それは後年之恭や門下の大館霞城らが討幕軍を起したことでもうかがえるが、なかなかその具体的事実が得られない。口説によれば嘉永6年(1853)夏、幕吏の嫌疑をさけて日光へ旅したといわれる。そして客寓半蔵におよんだが、このとき有名な「晃山紀勝」の画巻と「無声詩話」の著述をなしている。無声詩話は今日、竹田の山中人饒舌とならんで、江戸期画論の双美と称されている。歳晩におよんで呑山楼に帰ったが、このときまた藤森天山の訪れがあった。そしてついに風倒して安政元年(1854)の元正をむかえるのである。
安政元年(1854)春、やや小康を得た烏洲はさかんに採管を揮ったらしく、この年江山雪眺図など稀有の名作が数多く残されている。風后一種の宏逸酒脱の気格を加うるのである。また静軒のために武州松山雅会を斡旋したのもこの年である。「無声詩蛆」成る。
翌2年安積艮斉は無声詩話の序文をおくっている。この年中ばころから病が再発したらしく、画業作詩の一切が知られないのである。金井家に伝わる絶筆二幅はこの年書かれたものだが、もう筆がふるえて判読に困難なほどである。安政4年(1857)正月14日、ついに西旅についた。享年62才。晩年の作詩一首を挙げる。
家産蕩然散如沫(家産蕩然散りて沫の如し)
残生長与白雲閑(残生長く白雲と閑)
人間蝸角雖堪笑(人間蝸角笑うに堪うと雖も)
世路羊腸豈易攀(世路羊腸あに攀ぢ易し)
境町人物傅』より転載。西暦はHP作成者が追加

ナビゲーション