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伊勢神宮を本宗と仰ぐ、神社本庁傘下の神社です。

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前河原の雷電様祭り

奉仕している神社に、群馬県伊勢崎市境島村の雷電神社があります。以下 境町の祭り 境町史資料集第6集(民俗編) より抜粋です
上州名物は「空っ風とかかあ天下」と昔からいわれるが、もう一つある。それは雷である。雷電様はその雷の被害を防除する神、つまり雷災除けの神として、群馬県内では古くから各地に祀られ、その数は、354社を数える(「神社明細帳」)。
前河原の雷電神社の、創祀年代は不詳であるが、かつてこの地区は那波郡前河原村といって、独立村であったころから村の鎮守神として祀られていた。村は明治15年に島村と合併したが、この雷電神社の祭りは、現在でも前河原の人たちによって続けられているのである。
祭日は現在、春祭りが4月3日(以前は3月15日)、秋祭りは11月3日である。秋祭りの日取りにも変遷があったらしいが、今回の調査(昭和60年11月3日)では明確にできなかった。
祭りは春・秋とも「旗番」と呼ばれる人たちが中心になって行われる。前河原は現在、6組に分かれているが、旗番は組単位で1年ずつ務め、次の組と交替する。組は6戸から9戸の編成になっている。旗番の組には、旗番帳と、お札やその版木の入った文書箱が引き継がれている。
祭りは現在、次のように行われている。先ず春祭りであるが、当日は神社の鳥居に寄せて、2本の国旗が交差して立てられ、時々太鼓が打ち鳴らされる。人々はこの朝蒸かした赤飯を持参し、神前に供えて拝む。以前は、赤飯を供えるのは早いほうがよいというので、朝まだ暗いうちから先を競ってお参りにきたという。また、「前河原雷電神社御爾」と記されたお札が旗番によって、前河原の各戸に配られる。このとき各戸では、お札料として、200円を奉納する。これがこの年の秋祭りを含めての祭典費となる。ただ、秋祭りには宮司の拝みと、お札の発行は行われていない。この外は春祭りと同様である。また、この外の特別な行事はない。
この祭りも、かつては今より盛大に行われていた。まず、祭りの前日には、毎戸一人出て、幟が神社のやや東方の道端に立てられた。この幟は近世のころ、儒学者として知られていた亀田鵬斎(ほうさい)(1752-1826)の書いたものである。鵬斎は邑楽郡千代田町出身の人である。この幟は現在でも地区に保管されている。
幟は祭りの象徴である。本来は祭りに来訪する神の目印であった。また祭りに際し神の宿る木{柱}であったのである。したがって、幟を立てることは祭りを意味する。祭りの世話人を、前河原では旗番といっているのも、このためてあろう。東新井や小此木字新田ではカマ番と呼んでいる。カマは釜であろう。古来から祭りに際し、神に供える料理を作ることは、最も大事な役目とされていたのである。
2、3年前までは灯籠も立った。神社の東のT字路に通ずる道の両側に、多いときには15、6本立てられたという。灯籠に絵や字を書くのも旗番の仕事であった。前日の夕方には旗番により火がともされた。祭りの前夜のことを、ここではイイバン(宵晩)といっている。また、祭りの日に地元の新井才次郎氏(大正初年没)が、拝みの役を務めていた時代もあったという。この人は富士講の先達(リーダー)であった。
雷電様は雷災除けの神とともに、水神としての神格も、基本的には具えているという。つまり、暴風雨や洪水を鎮めて、水難から人を救ったり、農作物には適度の水を恵んでくれる神でもあった。前河原は昔から利根川の度重なる洪水に苦しんできた村である。この村の祖先が、雷電様を鎮守神と定めた理由も、ここにあるのではないかと推測できる。
今年の旗番の人たちの話によると、もとこの雷電神社は前河原村字飯田に鎮座していた(現在は利根川になっている)。その後、洪水に襲われたとき、奥の院だけを村人が守り、大正3年から5年にかけて行われた河川の大改修による前河原集落の移転に伴い、現在地に移されたものという。御神体は雷神の木像である。
前にも書いたが県内では邑楽郡板倉町と境町伊与久にある雷電神社が著名である。そして、前河原の雷電様は、この二社と兄弟であると伝えている。その理由は、この三社の御神体の木像を、同じ一本の木で作ったためという。その木の本の部分で作ったのが伊与久の雷電様、中の部分が板倉、そして一番末の部分で作ったのが前河原のものという。つまり、前河原の雷電様は末っ子ということになる。これに類する伝説は他神にもある。これは、著名な神と結ばれることによって、地元の神の神威と御利益を更に尊く高ものにしようとする信仰心から生まれた言い伝えであるとも解釈できる。また、神同士の存在を、人間の家族構成と同じように捉えようとする、古来からの人情の表れであるといえよう。

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