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清水町の川施餓鬼

川施餓鬼とは、川で溺死した死者の霊を供養する一種の法会である。
清水町の川施餓鬼は、毎年8月末の日曜日に、同町を流れる佐波新田用水堀で行われている。昭和26年8月からである。話者の常見貫一、同サトさんの話のよると、以前はこの用水堀に落ちる人がたくさんいたという。そのうち戦前から戦後にかけて、4人の子どもが死んでいる。また、落ちた人を助け上げたことも、何回かあったという。以前のこの用水堀には、現在のように防護柵もなく、特に夜間は暗かった。両岸は砂利道で滑りやすかった。中には自転車ごと堀に転落した人もいたという。
そこで、清水町の婦人会は、この堀で亡くなった人の霊を慰め、また、再び悲運な目に人たちが遭わぬように、川施餓鬼を行うことになった。昭和26年8月が第1回の川施餓鬼で、当時の婦人会は25名であった。その後、婦人会員が次第に少なくなったので、この行事を清水町全体で行うことになった。この間、幾年か灯籠流しは中断されたが、塔婆を岸辺に立てての川施餓鬼自体は、休むことなく続いていた。そして昭和42年から再び灯籠流しも復活し、52年ごろからさらにこの行事は、盛大に行われるようになったという。
町内を挙げての行事なので、中心となって活動する世話人の数も多い。現在、区長をはじめ顧問、区5役、隣組長(14組)、同組長の奥さんたち、体育委員、青少推委員、婦防連委員、神社総代等である。行事の費用は主に区費で賄われているが、町内の人たちの奉仕による面も多い。
今年(昭和61年)は8月31日に川施餓鬼が行われた。当日、世話人は午前8時半に区の会議所に集合し、係分担によって諸準備に取り掛かる。男衆は灯籠の流し場の整備等、川に関係した仕事。女衆は会議所で灯籠作りなどの仕事に取り掛かる。施餓鬼場や川沿いの照明用の電気は、近くの各戸からコードを引いてもらってくるので、特別に電気料はかからないという。
灯籠は毎年数多く作るので、前々から手回しをしておく。灯籠には「浮かび灯籠」と「流し灯籠」がある。浮かび灯籠は流さないで、中に照明をつけて水面に浮かばせておく。飾り灯籠ともいう。これは各隣組が、当日までに工夫をこらして作ることになっている。以前は商店が思い思いに作って、浮かべたこともあったという。流し灯籠は一辺18cmほどの薄いベニヤ板を台とし、四隅に穴をあけ、これに割り箸を差し込んで骨組みとし、その四周に絵をかいた紙をはる。ベニヤ板の中央には釘を裏から打ち込み、ロウソクが立てられるようになっている。
この流し灯籠の材料は、幾日か前に組長を通じて、町内の全120戸に配布される。さらにその家に子どももいれば、その人数分が加えられる。子どもを水難から守ろうとする精神に貫かれていることが注目される。この灯籠は各戸で組み立て、絵を描いて仕上げ、当日持参して川に流すわけである。一方、別の流し灯籠の絵は、子供会によっても描かれる。この作業は前の週の日曜日に、子どもたちが会議所に寄って行う。この絵は当日、女衆によって灯籠にはりつけられる。こうして灯籠は当日、参詣にきた一般の人たちに、無料で配布される。この流し灯籠は毎年700個ほど作られるという。
さて、当日は夕刻になると、川辺に作られた祭壇(施餓鬼棚)の前で、長光寺の大沢亮啓和尚の拝みが行われる。祭壇には新しく作られた角塔場が安置されている。この塔婆も町の大工や長光寺の奉仕によって作られたものである。僧侶の拝み料も無料であるという。また、祭壇には菓子の入った紙製の三角袋もたくさん供えられ、一緒に拝まれている。この菓子袋は集まった子どもたちに、護符として配布される。これも町内の女衆の手によって作られたものである。
午後6時半ごろから、拝みに来る人が続々と詰め掛けてくる。町内の人をはじめ、百々、下武士、中島、女塚の方からも集まってくる。祭壇に線香を供え、賽銭をあげ、流し灯籠をもらって川に流し、水難者の冥福を祈る。水面にゆらめき流れる灯籠は死者の霊の迎え火でもあり、送り火ともなる。また人々の災厄や煩悩を流し去る役目も果たすという。
余興にはカラオケ大会や百々子供会の八木節などもあり、川施餓鬼という哀感を伴う世界に、一種の華やかさも添えられ、今年も無事に行事が終わった。この川施餓鬼を始めてから、この用水堀での水難者はなくなったという。
境町の祭り 境町史資料集第6集(民俗編) より抜粋

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