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ヤングスズラン会の川施餓鬼

川施餓鬼とは、川で溺死した死者の霊を供養する一種の法会である。
東武伊勢崎線境町駅前を流れる佐波新田用水堀のことを、町の古老はウラッ川と呼んでいる。町の北部(裏)を流れているからであろう。以前は、子どもたちがこの川で、水浴びなどをして遊んだという。
この川では現在でも、駅前商店で組織しているヤングスズラン会によって、川施餓鬼が行われている。毎年、9月第一土曜日の夕刻からである。この行事は、すでに50年以上の歴史を持つと推測され、町内の年中行事の一つとしての性格を帯びている。その沿革は、話者の岡村幸一郎、須田昭次郎両氏の話によると、つぎのとおりである。
行事の創始年代は、残念ながら当時の主な関係者が物故されているので、明確にはつかめない。しかし、この行事は大正12年(1923)9月1日に、関東一円を襲った大震災の殉難者供養が直接の動機となって、始められたことはたしかである。川岸に立てる塔婆にもその旨が記されており、また、近年までこの行事は、震災日にあたる9月1日に行われていたからである。当時、最も被害が大きかった東京方面の殉難者には、境町出身の人もいたことであろう。したがって、この川施餓鬼は、大正12年から同15年頃にかけての、いずれかの年に、始まったと推測される。また、この川で子供が1人、水死しているという。主催者は駅前通りの商店(当時34、5軒)の人たちであった。この中で、特に行事の創始に中心となり、尽力した人は、次の各氏であると伝えている。
山田源太郎(庄の湯主人)、井田為蔵(永寿堂主人)、藤井弥太郎(印判店主人)
戦時中から戦後にかけて、物資不足等の関係もあって、灯籠流しは中止された。しかし、川岸に塔婆を立てての、川施餓鬼だけは休みことなく続けられた。塔婆の作成は当初から妙見寺(西今井)の大平住職のてによった。また、この川施餓鬼には戦病没者や風水害や交通事故等による死者の供養という趣旨も、時代の流れとともに入ってきた。なお、昭和24年頃、駅通りの商店街にネオン灯が設置されたのに因んで駅通り商店組合はスズラン会と称した。
昭和47年から、専門の花火師による花火の打ち揚げが入り、本格的な流灯・花火大会として立て直された。主催者もスズラン会からヤングスズラン会と改称された。各商店の主人も、若い二世の時代となったためである。ヤングスズラン会の初代役員は次の諸氏であった。
●会 長 常見昌三
●副会長 天田卓次、河田茂
●会 計 須田昭次郎
●書 記 飯島偉兼
●幹 事 村上俊之、関口信也、西沢一郎、渋沢辰晴、新井智之
行事の回数も、この年から改めて起算することになった。つまり、昭和47年9月1日に行われた流灯・花火大会が第1回となる。そして第4回(昭和50)から日取りが、9月第一土曜日に変更され、現在に及んでいる。
昭和57年(第11回)から、花火の方は町の商工会が担当し、灯籠流しの方は従来通り、ヤングスズランが受け持つことになった。担当者が分化したわけであるが、しかし、花火に伴う寄付金集めなどの裏方的な仕事は、ヤングスズランが主体となって行われてきたという。花火の費用は、一切寄付金によって賄われていたのであるが、この年からは、町から補助が出るようになった。ちなみに花火提供者は、第1回は54軒であったが、第4回(昭和50)には176軒に急増している。なお、花火の初回は本町の栗原薫氏、次回より群馬郡榛名町の小幡煙花店に依頼してきた。また、この年以前にも花火を揚げた時もあったが、これは子ども用花火を使っての、ささやかなものであったという。
昭和62年(第16回)には、花火は平塚前の利根川河川敷で打ち揚げられた。これまで、駅の北方が打ち揚げ場であったが、住宅建築が進み、家屋が密集してきたため、変更になったのである。この年は8月22日の夜に利根川をはさんで、対岸の埼玉県深谷市との競演の形で行われた。本町は尺玉や水中スターマインを含む8360発(550万円)、深谷市は5000発の花火を打ち揚げ、5万余の観衆を魅了した(「広報さかい」437号)。また花火打ち揚げの前に、島村の渡し船上(Googleマップへ)で、本町の田島喜八町長と、小泉仲治深谷市長とが会見し、友好の握手を交わす一場面もあった。
一方、灯籠を流しての川施餓鬼は、従来通り、佐波新田用水堀で、9月に第一土曜日にあたる9月5日の夜に、ヤングスズラン会によって開催された。以上が流灯・花火大会の現在に至るまでの推移である。
つぎに、ヤングスズラン会による最近の川施餓鬼の次第を、日程を追って述べてみよう。
準備は1週間前から始まる。まず、ポスター、アンドン、灯籠作りなどである。また、灯籠の前売りも開始される。流し灯籠は1500個ほど作るが、前売りで3分の1は出るという。1個150円である。前売りした灯籠には、子どもたちが自分の名前などを書き込んで、当日は流しにくるという。また、花火に伴う寄付金集めは、これ以前から開始されている。
つぎの作業は川の清掃や灯籠の流し場と、引き上げ場の設置である。これが1ばん骨の折れる作業であるという。前日か2日前に行う。流し場は「はまのや」の前、引き上げ場は旧田島外科医院前の橋である。この区間、約300mほどの距離を灯籠が流れる。流し場には水面の高さに応じた桟橋を作る。以前はこれがなかったので、係の人が灯籠をヒシャクにのせ、本人に代って川岸から流してやったという。
当日は午後1時頃から準備作業が始まる。本部席、祭壇、灯籠第1売り場の設置(以上駅前広場の西南)。提灯の取付、照明、拡声器の取付。流し場への灯籠第2売り場の設置。灯籠の組立て作業などである。祭壇正面奥には、妙見寺より持参した「南無妙法蓮華経」と書かれた掛け軸が揚げられる。
準備が済むと祭壇前で、大平住職の読経がある。これにはヤングスズラン会員全員が列席し、済むと角係に分かれて活動が開始される。係は本部、祭壇、灯籠売場、流し場、引き上げ場、パトロール、連絡、本部接待、記録撮影などの諸係である。花火が商工会担当になる前は、この方の係もいた。また、映画や民謡踊りなどの余興が行われた年には、この係もいた。とにかく、30人ほどのヤングスズラン会員が、このような係に分かれて活動するのであるから、大変な行事である。
一般の人々は夕刻から続々とつめかける。そして、線香を上げて祭壇を拝む。賽銭を上げたり、灯籠を買っていく人も大勢いる(線香は無料)。賽銭の全額は社会福祉協議会へ寄付される。
こうして川施餓鬼は午後9時過ぎに終わる。その夜はヤングスズラン会全員によって、道路などの清掃が行われる。済むと手打式がある。賽銭報告や簡単な「清め」などが行われ、11時頃に解散となる。翌日か翌々日には諸設備の撤収作業や一切の後片付けが行われる。
なお、花火寄付者には事前に礼状と名入れの手拭やプログラムが配られる。ちなみに寄付総額は昭和60年頃で約600万円。昭和62年には約800万円であったという。現在、1口千円である。
川施餓鬼には灯籠が大事な役目を果す。水面に浮かべておく飾り灯籠は、以前は各隣組単位で、工夫して作ったという。現在では町の商店グループや金融機関などが提供している。流し灯籠はヤングスズラン会員が作るが、以前は一切手作りであった。物資が不足していた頃は、銭湯経営者の山田源次郎氏が銭湯の燃料の中から、手ごろな板を提供していたという。したがって、大きさもまちまちであったが、心のこもる灯籠であった。最近では百々の北辰機材などの協力によって、板部は機械によって、一定のサイズに作られている。後は手作りになるが、四角の柱は、既製の竹串を利用しているという。昭和62年には花火が分離した関係で、1000個ほど作った。しかし、100個ほど売り残しただけという。これは、この川施餓鬼に寄せる一般の人たちの関心の強さを物語っている。
境町の祭り 境町史資料集第6集(民俗編) より抜粋

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